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【感謝!】南アルプス市教育講演会「ウェルビーイングが育つ学級経営」〜質疑応答の学習者主体の授業における教材研究の考え方について伝えきれなかったことを書き残します


2025年6月18日(水)、南アルプス市で小中学校の先生方約200名に向けた教育講演会に招かれました。ウェルビーイングとファシリテーションを意識した学級経営について、私が提唱する「学びのモデル」を土台にお話しさせてもらいました。いつものように、話の合間には活動や演習を取り入れ、お褒めの言葉として「90分があっという間でした」という声をいただきました。皆さんが積極的に参加してくださったことが、本当に嬉しかったです。私の話や活動が、明日の教育活動に少しでも役立つことを心から願っています。


若手教員からの問いかけに思うこと

こういう大人数の参加者の中ではあまりないことなのですが,私の話の後の質疑応答の時間,200名という大人数の中で、若手の先生方から感想や質問をいただけたことは、とても印象的な出来事でした。もしかしたら,質疑応答の時間がもう少し長かったらもっともっといただけたかもしれません。南アルプス市の先生たちの積極的な姿勢がここでも可視化された感じです。私なりにお答えしましたが、そのやり取りの中で、改めていくつか深く考えるきっかけをいただけました。その際,質疑応答の時間の中で上手に答えられなかったことを書いておきます。


学習者主体の授業と教材研究

学習者主体の授業と教材研究に対する質問です。これって,学習者主体の授業に対する「あるある」な質問だなぁと思います。


「(個別最適な学びや協働的な学びのような)学習者主体の授業では教材研究がとても大切になると思うのだが……」

ということです。


当たり前です(笑)。


でも,これって「学習者主体の授業」だからではありません。「(一斉授業のような)教師主導の授業」でも大切です。

この話題を投げかけるとき,「学習者主体」と「教材研究」という構図になってしまい,「教師主導の授業」を忘れてしまいます。「授業」ですから,「教師主導の授業」も「学習者主体の授業」も「教材研究」は大切なわけですよ。

ヘタすると(無理に比べる必要はないかもしれませんが)「教師主導の授業」のほうが「教材研究」が「学習者主体の授業」よりも大変です。なぜなら,教師の力技で教室にいる子どもたち全員にこの時間のめあてを達成させる必要があるからです。30人いれば,授業開始の段階からバラバラ(つまり,いろいろ)なわけでその子どもたち全員にめあてを達成させるとはめちゃくちゃすごいことじゃないですか。そのためには,「学習者主体の授業」以上に「教師主導の授業」は教材研究が大変(必要)なはずです。

にも,かかわらず,こういうとき,「学習者主体の授業」を展開するとなると「教材研究」が大変になる(大変そう)ということになるのでしょうか。

日常的に教師用教科書や指導書(いわゆる赤本)片手に授業を進めている教師って,たくさんいるのではないですか?

「教師主導の授業」の大きな問題の一つに「子どもたちの様子が可視化されない」ということがあります。本日の授業内容を一応は伝達はしましたよ。あとは,あなた達の問題です,となるわけです。まさしく教師主導ですね(笑)。

質疑応答の時,上手に答えられなかったなぁという反省で,上の図を使って説明します(ちなみに,この図はこの日の講演の中でも用いていました)。

これは,白水始さんの著書「対話力」(東洋館出版社,2020年)をもとに私の講座講演等でよく使わせてもらっている一節です(この本はとてもよい本です。協働的な学びの仕組み等々を知りたい方にぜひおすすめです。文字通り,理論と実践が往還されている本だと思います。こういう本をいつか書いてみたいです)。


白水さんは「学習者観・学習観の「天動説」から「地動説」へという提案をされています。

図のように,「天動説」は「教えないと,教わらないと何もできない」学習者観があるからこそ「学習(授業というもの)は正解を教える,教わる」ものであるという関係性になっています。しかし,「地動説」とは「状況次第で自ら答えを作り問いを見つけられる」学習者観をもっていれば「主体的・対話的で深く学ぶ」学習(授業)になるのは必然ということです。

ここに,私の講座講演では,私の解釈を入れて話しています。以下です。

ここ近年は,「主体的・対話的で深い学び」というスローガンは教員間にも深く浸透していて,こういう授業を目指すべきだ,目指したいと思う教員が増えてきているように思う。しかし,学習者観は「教えなと,教わらないと何もできない」ままの教員が多いように感じる(上の図でいうと,斜めの矢印がそうです)。これでは授業にねじれが生じてしまうし,本来の意味での「主体的・対話的で深い学び」のある授業を実現することはできない。

このねじれた「学習者観,学習観」の考えのもと「学習者主体の授業」において「教材研究」が大切になると考えている先生がいたとしたら,少し自分の足元を見つめてみてほしいなと思います。


この節の最初に戻りますが,「学習者主体の授業」であろうと「教師主導の授業」であろうと「教材研究」は大切です。しかし,同じ「教材研究」と言葉を用いていても,方向性が異なると考えます。

一つは「教える(指導する、教師主導の)ための教材研究」、そしてもう一つは「学び(学習を促進する、学習者主体の)ための教材研究」です。上の図を参照すれば分かる通り,学習者観が異なるからです。「教えるための教材研究」では、「学び」には繋がりにくいと考えます。「学び」という視点が欠けているからです。

(もちろん、「授業は教えるものだ」という考えの方もいらっしゃると思いますが、それはそれで,ここで議論する場ではなく,別な場で話し合う必要がありますね)


蛇足ですが,よく「教師主導の授業」ができてから「学習者主体の授業」ができる,みたいなことをおっしゃる方がいます。これはある意味,「上達論」的な発想ですね。しかし,私は上の図などからも考えて,「観」や立ち位置,マインドセット,OSが異なるので,別物と考えています(もちろん,全てにおいて相互作用が働くと思いますので,あるところで役立ったものは別なところで応用発展ができるというのは当たり前にあると思います)。

だから,上達論ではなく,「今から」取り組もうと考えれば,「教師主導の授業ができるできない」に関係なく,「学習者主体の授業」を進めることができると考えています。


完璧を求めなくていいんです。1回で完全体を考えなくていいんです。だって,人生は続くのですから。普段,教師主体の授業を進めていたとしたら,それと同じ感覚で学習者主体の授業を進めればよいと思います。なぜ,学習者主体の授業の話題になった途端,(教師主導の授業では特段強調されないのに)完璧を求めるようなやりとりになってしまうのでしょうか……。


講座講演の進め方について考える

最後に,講座や講演の進め方について,電車に乗った帰り際考えたことがあるので,メモがてら残しておきます。

総論と各論についてです。これまでも、苦手意識がありながらも100人、200人規模の場で話す機会をいただいてきました。本当にありがたいことです。しかし、やはり200名規模となると、どうしても一般的な抽象的な内容、いわば無難な総論に終始しがちだと感じています。

そんな中で今回のように若手の先生が積極的に質問を投げかけてくれた時、「ああ、もっと深い話を、本当に必要としている方々と、時間をかけてじっくり対話できたらどんなに良いだろう」と感じるわけです。今回の研修の内容は、私が12月に出版した『ウェルビーイングな学級経営のためのポジティブ心理学』(アルテ)の内容をベースに、演習や活動を交えて構成しました。

そう考えると、いっそのこと、参加者の方々に事前に書籍を読み込んでもらい、その内容とご自身の状況や学級経営観を照らし合わせながら話し合い、そこから生まれた疑問や感想、質問をやり取りする方が、一人ひとりに合った学び、つまり「個別最適な学び」や「協働的な学び」に近づくのではないか、とふと思ったのです。これはこれで,事前に書籍を呼んでくるなど参加者に負担を強いることになるので100人を超える一般的な講演会等に置いては現実的な発想ではありませんね。

とはいいましてもこれは、総論的な話と各論的な話、どちらに重きを置くかという課題でもあります。今後、私の講座や講演の進め方について、もう少し深く検討してみたいと強く思っています。

今回の研修は、私にとって多くの気づきと深く考えるきっかけを与えてくれました。本当に感謝しています。

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