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学級通信問題。「是か非か」でもなく「善か悪か」でもなく,全校禁止かでもなく……


最近Twitterで「学級通信ありか無しか」みたいな話題や投票を目にしたり,教員同士の雑談の中で全校一斉に学級通信禁止の決定がなされたという話を耳にしたりした。


うーん,と思う。


前置きもなしに「学級通信,ありか無しか」とか「学級通信,善か悪か」とかはないんじゃないだろうか。


目的のもとの手段として

「学級通信を頻繁に出している先生」が学級通信発行にある目的を持ち,その達成を目指し行っているのであれば「アリ」だろう。そして,その結果が良好と出れば,「学級通信は善」ではないだろうか。

もちろん,その逆であれば,「無し」「悪」かもしれない。ただし,すぐに決めるのではなく,その振り返りをすることは大切だと考える。

これって,「学級通信」だけではなく,教育活動を進めていくうえでは当たり前のことのように思う。


そこにプロセスはあるのかい?

「全校一斉の学級通信禁止」という言葉だけを聞くと暴論だと思う。

ただし,立ち止まって考えたいのは「全校一斉の禁止」となるまでのプロセスに注目してみたい。ここに至るまでの校内での合意形成があったのであれば,それを尊重したいし,尊重スべきと思う。

しかし,そういうものがなかったとしたら異議を唱えたい。

各教師の考える教育目標を達成するツールとして「学級通信」を位置づける教師はいてもいいはずだし,その部分の自己選択,自己決定という部分を削いでしまっているとしたら,子どもたちの「主体性」や「多様性」を育もうとする前にこちら側が自ら放棄してしまってどうする?と問いたい。


現役時代,ある年から毎日発行するようにした学級通信

わたしは,教員7年目からではあるが,学級通信を毎日発行するようにしていた。

上に画像を貼っているが,2017年に「小学校1年生」担任向けに本を書いているが,これは2度の1年生の学級担任の経験をベースに書いたものである。


なぜ書けたのか?


毎日書いていた「学級通信」があったからである。

わたしの「学級通信」は基本的に「授業通信」であった。


もちろん,月始まりにはその月の見通し的な内容も書くし,イベント等があればそれらの予告だったり,その後の様子だったりをお知らせする内容も書く。

しかし,それ以外の日々学級通信に書く内容は「授業通信」であった。


保護者に向けて「このような授業をしていますよ」ということを実況中継風に書いていく(私世代の人に書くなら,法則化論文風に書いて