top of page

映画「でっちあげ」〜簡単にあやまらないようにしようと思った

今クール(と私が決めている期間)は,「国宝」と「フロントライン」を見てきたので,この期間の映画はもう見ないことに決めていました。

【参照】


しかし,ネット上で甲斐﨑博史さん,中村健一さんが「でっちあげ,よかった」と書いているのを見て,どうしても見に行きたくなりました。


書籍「でっちあげ」と映画「でっちあげ」

とはいいましても,文字人間なので,映画の前に本が気になります。

検索をかけると,ななななんと!KindleUnlimitedで読めることがわかりました。

【参照】


早速,ダウンロード。

普段,21時前後に就寝するわたしですが,この日は,0時過ぎまで読み続けました。

自分も,教員の端くれなので,一般に教員のニュースは目を通していたと思うのですが,この当時,こんなに世の中を騒がせていたことを知りませんでした(反省)。きっと,自分には無関係だと思っていたのでしょう。なんと,厚顔無恥,世間知らず,お気楽者ですね。じゃっかんの言い訳としては,場所が九州ということで縁遠かったところもあるかと思います。

書籍を読んでいても,一方と一方の言い分が間逆なので,本当にそうなのか?と疑いたくもなりますが,処分や経過を読むに圧倒的にこのストーリーのとおりなのだと思います。

そのうえで,この書籍は大まかなところはそのとおりとしても,どこからどこまでが事実でどこからどこまでが脚色なのか,ストーリーがストーリーなだけに,何をどのように信じてよいのかわからなくなります。ややこしくなるのが,そこに映画が加わることです。もし書籍がノンフィクションだったとして,どこまでが事実でどこまでが脚色か気になるところですけど,映画は映画で,書籍が書いていたことを若干変更したり,加えているところがありました。削除したところは脚色というよりも映画という尺の関係上省いたのだと理解することができますが,書籍の内容を変えること,そして,加えること,は,映画がノンフィクションではないこと(もちろんそうですよね)を強く(私に)印象付けることになり,この映画のどこからどこまでが事実でどこが脚色なのかを知りたくなりました。

というか,映画なんですから,全て脚色でエンタテイメントだと割り切ればいいのかもしれませんけどね。


「あっ,映画とはこういうものなのだ!」と感じたのは,当たり前のことですが「映像の力」です。書籍を読めば,実際におきたという部分と作り上げられたという部分(ようするにでっちあげ)は,頭の中で,なんとなく切り替えて読んでいる自分がいます。言わば,実際の部分を鮮明にして読み,でっち上げの部分を霧がかかったようにして読む,みたいな感じですね。

しかし,映画はどちらも(あえてなのでしょうけど)どちらも実際にあったような映像の作り方で視聴者に見せるようにしてありました。脳が混乱しますね。はい。バグります。

「あっ,これが映像の力なのだ,映像の演出なのだ,これは文字(書籍)ではできないことだな」と皆さんご存じのように書籍を上に見ている私が映画を「おお,いいねぇ」と感じた部分でした。


簡単にあやまらないようにしよう

ここからは,映画を見て,自分に引き寄せた感想を書いていきます。

まず,最も感じたことが

「簡単にあやまらないようにしよう(謝罪しないようにしよう)」

です。

私は,面倒なことが嫌いです。ゴタゴタが嫌いです。揉め事が嫌いです。

ですから,何かあると,内容がどうであれ,「私が謝って済むことなら謝ってしまおう」と思う節があります。

すぐに,そういった空気になると,真っ先に「どうもすみませんでした」と率先して言ってしまいます。

特に,教員と保護者との関係になると,良好な関係を気づいていこうと考えると,教育的配慮を考慮して,子ども,そして保護者にポジティブに捉えてもらおうとして自分自身が下手に出る場面があったことがあるかもしれません。


これは,ダメ(悪手)なんだなぁと思いました。

私ほどでないにしても,綾野剛扮する主人公は,逡巡してそのようにしてしまってことが大きくなってしまっています。最後,裁判所で語る言葉もそのようなことが入っていました。「裁判にまで発展するとわかっていたのなら,きっぱりと事実を元に表明しておけばよかった」と。


事実を語ること,語ろうとすることが大切なのでしょう。

もちろん,その事実にしても,様々なバイアスが入ってくる可能性があります。難しいところではありますが。


自分には理解できない他人

書籍でも映画でも,どうしても柴咲コウさん演じるような人物が実際にいるというということが信じられないところがあります。私は人生において,周囲の人達に本当に恵まれてきたのだなということを感じます。これは,映画や小説等を読んでいて,時々思うところではありますが,その中で描かれるような「自分の理解を超えた人物」にお目にかかったことがないからです。


とはいいながらも,ここに出てくるマスコミ,管理職,相手方の弁護士たち,これらの方々は「理解できない」わけではありませんが,どうしてこうなってしまったのでしょうか。このあたりになると,私自身,もしかしたら,こちらのような側に立って接してしまっているかもしれないという恐れや怖さがあるので,なんとも言えませんが,一方の側の主張しか真実と思えなくなるのはどうしてでしょうか。


一方が,強くあることを主張し,もう一方は主張してこなかった。

ということは,一方がそのことで困っていて,一方は困っていないということである。

だから,主張している側が正しいことを言っている。


という構図になるのかな。


自分が,小学校教員だったとき,「先生は,あちら側の言い分からしか見ていない」と言われたことがあります。渦中に入ってしまうと,どちらか側からしか見えにくくなる可能性がありますね。肝に銘じたいです。


メタ認知力を身につけること

公正公平な判断力を身に着けようとすること

大事にします。


家族と自分の側に立ってくれた弁護士の素晴らしさ

一方,妻と息子,そして,自分の側についてくれた弁護士,映画でも書籍でもどうように味方でいてくれた方々,すばらしいと感じました。

実際,周囲から世の中からめちゃくちゃに言われるわけです。

それでも信じると一緒にいてくれた妻,応援してくれた息子,すごい。

そうでありたい。


何よりも弁護士。

この弁護士がいなかったら,裁判を続けることができなかったことでしょう。

いやはやすごい。


安っぽい言葉ですが,私も「かくありたい」と思いました。


ちゃんと,自分の目で,耳で,頭で,確認してしっかりと自分の責任のもと,判断して行動していきたいです。


(2025年7月9日)





Comments


  • Facebook
  • Twitter
  • YouTube

© 2022 by Takayuki Abe

bottom of page