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第26回学級経営実践セミナー(山梨)終了!〜「多様性」をキーワードに各自の立場や状況からいろんな話ができました


(珍しく,セミナーに夢中になりすぎて,会場等の写真を撮ることを忘れておりました。そこで今回の写真は,韮崎会場の近くの巨大像。ウルトラマンはこうしたものがモチーフとなっているよねなどと赤坂先生とお話しておりました)


「地域性の息づかい」の面白さ,豊かさ

対面でのセミナーが再開し始めて,今年度,学級経営学会が主催するセミナーだけでも,愛知,仙台,山梨と行かせてもらいました。

その地域地域での特色があって,非常におもしろいなぁと思います。

そして,もう一つ,その開催してくださった事務局とのつながりから集まってきてくださる方々,そして,発表者。これもまた面白いです。


今回も,山梨だからこその特色,そして開催事務局,渡辺克吉先生を中心に集まった方々だからこその特色,が存分に感じられました。わたしは今まで山梨とは縁遠かったのですが,一気に身近に感じることができました。感謝いたします。


今回のセミナーの中で,わたしの発表の中で,「授業づくりネットワークNo.44」(学事出版)で堀公俊さんが書かれた「学校とファシリテーション」という原稿の中の一部分をいくつか引用しながら,わたしの考えを話させてもらいました。

その中の一つに,グループ・アプローチという考え方があり,そこでは「集団は相互作用の集合」として見る,考えるということをお伝えしました。

また,堀さんはこの原稿の中で,オンラインではこの相互作用をなかなかに引き出しにくいので,オンラインにてのファシリテーションはとてもむずかしい旨の執筆をしていたことを思い出します。


何を言いたいかと言いますと,「その場」だからこその息づかい等々が,身近に感じるからこその面白さ,対面のライブだからこそのよさですね。


多様性に取り込まれるか,排斥するか

わたしと赤坂先生を除き,4人の方の実践発表があり,いずれも特色ある発表で,会場の皆さんは持ち帰って自分の実践の中に取り入れたいと思うものばかりだったのではないでしょうか。

このセミナーにいらっしゃっていた松山康成先生(東京学芸大学)が,「学会とは違った面白さがある。とても楽しかった」とおっしゃっていましたが,学級経営そのものが,現場があってこその話題であり,実践であり,研究なので,現場の息づかい,リアルをもとに話していくことにおもしろさを感じるのは当たり前なのだと再認識しました。


4人の実践者が,それぞれ「おもしろがって」「楽しんで」学級の状況をお話し,自分の実践を紹介していることが印象的でした。


わたしはそれを聞きながら,多様性の波に取り込まれてしまうことを楽しむか,それに抵抗して排斥しようとするか,この分岐点であり,取り込まれてしまうことを選んで楽しんでいる方々が目の前にいるのだなと解釈しました。


教師という傲慢な人種は,時々,「多様性をどうやって育てるか」とか「多様性をどのように伸長させるか」というような発表や議論をしがちです。


わたしは,そもそもここが間違っていると思います。もともと,子どもたちは,そして人間は,「多様」なのです。だから,わたしたち教育(関係)者がおこなうべきことは,多様であることを妨げないことです。多様であっていいのだよというメッセージとともに,そういう場の提供をすることです。


そういう意味で,インクルーシブ(多様性であっていいのだよ)だし,従来の学校教育,旧来の学校教育は,エクスクルーシブ(多様性に抵抗し,排斥し,何かに揃えようとする)ことが多いのではないでしょうか。


今回の発表者の方々は,目の前にいる子どもたちの多様性に気づき,目にし,それをどうにか統制しよう,管理しよう,一つに揃えようとするのではなく,発表者(先生)自身も多様性に取り込まれてしまっていたのが印象的でした。外国にルーツをもつ子どもたちが教室に多数いらっしゃる状況の教室実践を紹介してくださった発表は,まさしくその代表で,「揃える」「型にはめる」ことなど,どうしたって無理なわけです。

「揃える」「型にはめる」ことを放棄することから,昨日の発表にあった面白くも実りある実践が生まれてくるのだと思います。


多様を受け入れて!認めて!

で,これはセミナーのときにお話しようと思っていたものの,その機会がなく,話すことができなかったのですが,これって,「外国にルーツがある児童が多いから」とか「特別な支援を要する児童が多いから」多様性にならざるを得ないというわけではありません。

例えば,外国にルーツのある児童が多い学級の場合,視覚的,聴覚的に否が応でも感じてしまうことになります。肌の色や髪の毛の色,目の色,言葉の違い,ファッションやしぐさ等々……。


しかし,同じ言葉を話し,肌の色も,髪の毛の色も,目の色も同じである日本にルーツを持つ子どもたちだけで構成される学級(つまり,多くの日本の学級)も,それが可視化,可聴化されないだけで,あたりまえに多様なのです。


同調性が強い国民性であるわたしたちは,それでも,「同じ日本人」ということで,いまだに,数多くのことを「揃えよう」という方向に進みがちです。

「そういうことはもうやめましょう!」といいたいです。


昨日,わたしの発表はそれを言いたいがための,「ファシリテーション」という言葉を使ってのものだったのですが,何人の方に伝わったかなぁ〜。


フレーム(枠)ということ

赤坂真二先生(上越教育大学)が話題にしてくださったことも含めて,わたしがファシリテーションを説明する中で,用いた「フレーム(枠)」という言葉にずいぶんと引っかかりやモヤモヤをもって聞いてくださった方が多くいるようです。

とてもうれしく思います。


最後に,お話させてもらいましたが,再度,その時と違った説明の仕方をすれば,子どもたちをエクスクルージョン(統一,揃える)させるための枠ではなくて,教室に安心してインクルージョン(それぞれがそれぞれで生活していいんだよ)してもらうための枠なのです。

いわば,ビジネス界で最近言われる「DEI&B(Diversity, Equity, Inclusion and Belonging)」を担保するための枠です。


なんだかんだ理想を語ったとしても,学校という存在は「強制装置」です。「しなければならないこと」「させなければならないこと」があります。

どんなに「主体性」という気持ちの良い言葉を使っても,そういった「統制」的なものがあるのが事実です。

多くは,そういった強制的なものを隠して(でも,子どもたちや多くにはそれが隠しきれていない),主体性を発揮するように促します(「好きなようにのびのびやってごらん」とかね)。

わたしの主張は,そういった嘘はやめましょうということです。


本来は,子どもたちに制限なき主体性を発揮してもらいたい(これが枠無し状態)。でも,学校という都合上,それは難しいので,申し訳ないけどこの状況の中という制限の中で主体性を発揮してください(つまり,必要最小限の枠の提示)をするということです。


ちなみに,この文脈での「枠」だけでなく,ある活動や学びをするときには,目標や学習方法,評価方法,その活動や学びをする意味や意義や価値,などもこのフレーム(枠)の中に含まれます。


これらを,活動の前に子どもたちと「共有(合意形成)」してから,活動(学習)するのです。

こうすることで,随分と風通しがよくなり,伸び伸びと学校生活を楽しめる,学校教育活動を進める,ことができるのではないかと考えています。


このように,みなさんとの相互作用により,わたしにとってもいろいろとたくさんの「気づき,学び」ができました。


今回も本当にありがとうございました。




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