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執筆者の写真あべたか

私の興味関心は昔も今も教室の中で何が起きているか〜ますます質的研究に傾倒していく傾向あり!


歳を重ね,少しずつ老いを感じていく中で,後進に道を譲ると同時に,私自身の興味関心にどっぷりと身を委ねたいと思っています。

そういう意味では,わたしの興味関心は昔も今も,そして,ますます,「教室の中で何が起きているか」というところにつきます。教室内の子どもたちの姿(言動,社会的背景,姿……)がわたしの興味関心の真ん中です。

逆にいえば,「教育」とか「学校」という名称がついたものであったとしても,「教室の中」に関係ないものだとすれば(全く関係ないものはないと思うので,より正確に言えば「教室の中と縁遠いものだとすれば」)ほぼ興味ありません。


普段は政治経済,思想,哲学,社会学,ビジネス……等々の情報を集めたり,それらの書籍をも手にして知識を手に入れていますが,それらはすべてこの教室内の子どもたちの姿を自分なりに解釈するための手段として行っているかんじですね。これらを目にしても,頭に入れても,教室の中と結びつけて考えたり,教室の中にどのように取り入れられるかなと考えていたりしています。


そこで今,わたしは「実践」としてはファシリテーション,「研究」としては質的研究に傾倒している……という感じでしょうか。

(わたしのことなので,来年の今,同じことを言っているか自信ありませんが)


なぜ質的研究なのか

今,わたしのゼミではもっぱら質的研究推しです(笑)。もちろん,自身の研究を選択するのは自分ですから,最終的には自分自身におまかせしていますけれども。


ざっくりですけど,質的研究推しの理由は2つあります。


1つ目は,「今の教育の流れ+私自身の興味関心」からです。

今は「主体的・対話的で深い学び」の授業改善が求められ,そのために「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実が求められています。

ここには,学級を一つとしてみるのではなく,学級の中にいる一人ひとりの子どもたちを見ていく必要があります。

例えば,学級集団の傾向を見るためにテストや質問紙(アンケート)を取って,それを統計にかけて前後の変容を見る……ということが教室内の研究としてよくやられてきたことですけれども(基本,これらは量的な研究になります),これらは集団の傾向を見たり,(少し雑な言い方をすれば)学級の中の平均値的なものの変容を見るということになり,学級の中に入って見ることのできる,気になるあの子やその子やこの子のあれやこれやそれを見ることができません。

「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び」「協働的な学び」を日常的に教室で展開していけば,学級の平均値の変容ではなくて,個々人の具体的な言動が気になるはずです。あの子はどうしているだろう,この子はどんな動きをするだろうって。

そこを見ていきたいのです。


2つ目は,「活動中心の授業」だからこそできる研究だからです。

たぶん,教師主導の一斉授業(必ず教師を経由して発問や指示,説明を繰り出す授業)では,わたしが行おうとしている質的分析は難しいです。

質的分析ができるとしたら,(昔から見られましたが)「教師:〜,児童A:〜,児童B〜」と教師の指示説明発問やそれに対する子どもの発言を記録していく(TC型とも言ったかな)プロトコルを起こして分析していく質的分析が関の山です。

しかし,T-Cを中心としたプロトコル分析を読むたびに,ここから何がわかる……と思ってきたものです。一斉授業ですから,Cは同じ児童を指すわけではなく,Aさんだったり,Bさんだったり,Cさんだったりするわけです。つまり,T-C型で読み取ることができるのは,T(つまり,教師)がどのようにして,その部分の授業の流れをつくっていったか(物語をつくっていったか,山場を演出したか)ということでした。


しかし,授業は変わりました。

(正確にいえば,全国の多くの授業は変わっていません。様々な教室を訪問すると,まだまだ指示発問説明の一斉授業が中心です。しかし,わたしはそういう教室を訪れる瞬間,自分の頭の中でシャッターをおろしてしまいます。もう,こういう授業はいいよ見なくてって)

わたしが,しっかり見ようと思う授業は変わっています。


わたし自身,文科省から先のようなことが言われる前から,築地久子先生の授業にあこがれを抱き,提案する社会科などを背景とした出力型授業観での授業づくりを進め,学習ゲームやワークショップ型授業,『学び合い』,協同学習に取り組み,それらは,皆,ファシリテーションを背景に行ってまいりました。


こういう授業で,中心となるのは,「そこにいる子どもたちがどのような学びをしているか」です。そこに,教師の言葉が入るにしても,子どもたちの活動中に対する「問いかけ」だったり「確認」だったり「助言」だったりするわけです。中心は子どもたち同士の言動です。それをプロトコルにしても,言葉の羅列だけになってしまう可能性があり,その言動の奥底にどんな意味や意義や価値があるのかを知ることはなかなかできません。子どもたち本人もわからない部分でしょう。

ここに深く,メスを入れて取り出してみる……そんな研究をしてみたいのです。目の前の子どもの学びの姿に深く入り込んでみたいのです。


かつてわたしが副理事長を務めるNPO法人「授業づくりネットワーク」では,授業記録にこだわり何度か特集を組んできた経緯があります。直近では,「授業づくりネットワークNo.30(通巻338号)授業記録を読もう!書こう!」の「佐内信之:授業を記録すること〜「ストップモーション方式」の再評価〜(p15-18)」が詳しいです。


ここでは,佐内氏が藤岡信勝氏が提唱した「伝達可能性」と「再現可能性」をとりあげています。授業づくりネットワークでは,この「伝達可能性」と「再現可能性」を大切にしながら授業記録をとりあげてきました。わたしが若手教員だった頃,この授業記録に大いに助けられました。なぜなら,この記録を参考にすれば,それなりのレベルの授業を自分の教室でもできる感じがしたからです。世は,授業技術の法則化が学校教育界を席巻していた頃でした。指示発問説明で構成する授業を行い,互いに追試をする形で授業の腕を上げていったのです。


そんな中,「授業づくりネットワーク」では世の中より一足先に,当時の代表であった上條晴夫氏が「活動中心の授業」という名称で次の授業の流れを整理していきます。アクティブ・ラーニング前の時代にすでにわたしたちは先取りして展開していました。

授業記録に目を向けると,指示発問説明から子どもたちの活動中心に目を向けていくに当たり,必然的に再現可能性の書き方が低くなってきます。子ども個々人の意思を尊重するため,教室ごとに大きくこどもたちの姿が異なるからです。その代わり,個々人の活動の様子を厚く記述していくことを佐内氏は可能性の一つとして提案しています。


わたしは今,授業実践者というよりも研究者としての立場で文章を書いています。授業記録ではなく,授業分析や教室分析ということになるわけですが,ここでもプロトコル分析に変わるものが必要です(もちろん,目的や状況によってプロトコル分析が有効な場面は多々あることでしょうから,プロトコル分析そのものを否定しません)。

今……。まだ,ここに明確に書きませんが,少し,見つけられそうな感じがしています。ゼミ生と共にいろいろと取り組んでみようと思っています。

何かが見つけられそうな気がして,ワクワクしています。

ポシャるかもしれないので,具体的にはまだ書けません。

形になったら,またここで紹介してみます。

楽しみに待っていてくださいませ。

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