(上の写真は,ちょうどいい写真がなかったので,参加者4人でランチを食べに行ったメニューの写真。会場の周囲に食事をする場所があまりない中でのぽつんととても素敵な食事屋さん,そして,ご一緒してもらったみなさんとすてきな時間を過ごせました。感謝いたします。)
1週間に2回も石川晋さんとお目にかかるなんて〜奇跡だ(笑)
1週間のうちに2度も石川さんとお目にかかるなんてね。
今後,人生においてないことでしょう(笑)
先週の火曜日での大学授業での内容,そして,ここでの内容。
私同様,どちらも重ねて体験された方も少数ですがいらっしゃいました。
そういう経験をしたからこそ言ってしまうのですが,どちらも体験したことでより豊かな学びになりました。
ありがたいありがたい。
結局,何の講座だったのか?
今回の感想としては,「結局,何の講座だったのか?」ということに(わたしの内なるものとしては)集約されるかなぁ〜。
「国語ファシリテーション講座」と名乗っているけれど,「国語講座」とはどう違うのだろうか?
いや……これは,「国語」でも「国語ファシリテーション」でもなく「石川晋」講座だったのではないか,とかね。
どこが「ファシリテーション」でどこが「国語」でどこが「石川晋」なのか
わざわざ区別する必要ないし,そういうことにこだわるからこそ,自然な動きができないロボットのようにぎこちない授業をし続けてしまうのかもしれないけれど。
専門性が際立ったこの時間
おもしろいことに,ずっと一参加者として参加し続けて感じたことは「国語ファシリテーション講座」という名称で「ファシリテーション」という名前が入っていたけれども,講座を受け続けながらわたしの内側にグングン湧き上がってくるものは「国語教育の専門性」というところ。
石川さんの組み立てていく「問いの構造」だったり,「教材の解釈」だったり,「フィードバックの内容」だったりとそこかしこに,「石川晋がひねり出してくる専門性」がある。
で,この部分にフォーカスしてどのように考えていくかを尋ねたら,(ここからは勝手な予想だが)すぐにわたしが真似できる形で説明してもらえないだろう(と思う)。
だからこその専門性なのだ。
これが,簡単に手順化できたり,説明できたりしてしまった際には,AIなどで自動化されたり,ロボットなどに取り入れられたりしてしまうだろう。そうなってしまっては教員免許を取得した「教師」という価値がなくなる。
ここは,「人間だからこそ」の領域であり,石川晋だからこそ,阿部隆幸だからこそ,Aさんだからこそ,Bさんだからこそ……,というところになるのだろう。
そうなると,ここだなぁ……。
ここに教師としての面白さ,存在価値,魅力があるわけだけど,たぶん,ここをめんどくさい,どうでもいい,よくわからん……ということになっていき,平準化を求め,学校スタンダードを作成してそのとおりに進めましょう(進めてください)といってしまったり,あらゆるものをマニュアル化してしまったり,「専門性」とは程遠い世界へ進んでいってしまっている学校,地域,自治体があるのだろうなぁ……。
そうすることで,人間だからこそできる,必要だという自分たちの「価値」を下げてしまう……。
とかく,石川晋さんには圧倒された。
付記)一斉授業と協働的な授業は対義語ではない
石川さんが面白いことを言っていた。
で,それはちょうどわたしも数週間前ゼミ生に話していたことと重なる。
「一斉授業と協働的な授業は対義語ではありません。例えば,(協働的な授業に位置づけられる)『学び合い』は一斉授業でしょ……(後略)。」
『学び合い』の授業も,今ではバラエティに富んできているので,もしかしたら,上の石川さんの発言に合致しない類もあるかもしれないし,「一斉授業」や「協働的な授業」の定義をしっかり確定してからジャないと厳密な話し合いはできないだろうけど。
少なくとも,巷でよく見られる『学び合い』授業。
少し,詳しく書くと,「最初に目標(やめあて)の全員達成を学級全員で目指し,ある程度の時間各自が自由にその目標に向かって活動をし,授業時間の後半にその目標に達成できたかどうかを全体で確認する。その後,多くの場合振り返る」という『学び合い』の授業だった場合,これは一斉授業だよね。
だって,一斉に目標を確認し,一斉に(各々に)活動し,一斉に達成状況を確認し,一斉に振り返りを行うわけだから。
でも,いわゆる協働的な授業でもある。
これは,協同学習を一斉授業の構図に取り込んだ場合,同様にやはり一斉授業になるわけ。
例えば,まだうまく整理できないけれど
一斉授業と個別最適な学び
教師主導の授業と学習者が主体の授業
みたいな形で対峙するのがいい感じなのかなあ。
まぁ,ここはもうちょっときちんと考え続けたいと思う。
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