
本日(2022/06/09),2022年度協同的な学習実践論,2回目の模擬授業です。
「自分の好き,強み,こだわり」を授業化するので,自然とみなさん力が入ります。
ざっくりファシリテーション(わたしが命名)にご対面
この時間で,3人の模擬授業を体験するのですが,そのお一人で「ざっくりファシリテーション」に対面しました。
「ざっくりファシリテーション」とは今,わたしが頭に浮かんだので勝手に命名しました。
授業開始のインストラクションで,「自分の主張と自分が考えたグランドルール」だけを参加者に投げかけて,あとは特に自分は何もせず終わりの時間まで過ごしてもらうというものです。時々,みなさんの活動(話し合い)の輪に入ったり,いろいろと巡ったりして授業者は過ごしていました。
本日のわたしのヒットポイントがこれ。
わたしとは真逆といっていいほどのファシリテーションです。
わたしは,参加者が活動をし始めたら,「これどうするんだろう」「あれはどうするんだっけ」と参加者が道に迷わないようにと,活動前にわたしが想定する参加者の不安材料を全て打ち消すような形のインストラクションを心がけます。
そうすることで,活動が始まったら参加者が安心して目標に向かって活動ができるからと考えているからです。
で,ずいぶんと逆。
ちなみに,授業者は手を抜いたということでは有りません。
たぶん,本日の授業に向けて一生懸命考えて,練りに練り上げて今回の授業を用意してくれたのだと思います。
その一つの理由として,授業開始のインストラクションはノートを見ながら一生懸命話していたからです。ノートそのものをじっくり読ませてもらうことはしませんでしたが,遠目で見るに,たくさんの手書き文字が書かれていて一生懸命試行錯誤したことがわかりました。
で,授業はどうだったか
めちゃくちゃ成立していたのです(笑)。
授業の内容は大雑把に言えば,「哲学対話」的なものでしたが,その考え方や方法論は哲学対話のそれではなく,(繰り返しますが)「自分の主張と自分が考えたグランドルール」だけを参加者に投げかけて参加者に活動を促しただけです。
おもしろいなあ……。
自分にないところを見て,自分が予想することとは逆の姿が見られると,大きな学びになりますね。
なぜ成立したのか
なぜ成立したのでしょうか。
(この書き方は,一般的にわたしのような考え方をするほうが正解に近いという前提で書いていますので,もしかしたら,もともとわたしのような不安材料を一生懸命取り除くファシリテーションそのもののほうが不正解なのであるということもあるかなと思っています)
わたしの見立ては以下です。
授業者のキャラがその進め方で許されるものだった
この面々で授業を何度か進めてきて,授業者のキャラクターがなんとなく皆さんわかってきています。この授業者はこんな感じの人と参加者たちに受け入れられていた,認められていた,ということが大きいかなと思いました。
(上と重なりますが)今までの積み重なりの関係性で認められた
参加者と授業者,そして,参加者同士,各自の人となりがわかってきています。そして,良好な関係性の上でこの授業は成立しています。だからこそ,大雑把なインストラクションでもスムーズに進行したと考えます。
活動目的が深刻なものではなかった
哲学的な対話でしたが,その目的や内容が深刻なものではなく,加えて一つの答えに導かなければならないような縛りもありませんでした。話がどのように転んでも誰かが被害を受けたり,傷ついたりするものではなかったので笑顔でざっくばらんな進行を参加者は受け入れたのだと思います。
つまり……
時と場合によって「ざっくりファシリテーション」は危険と感じます。
例えば,初めて集まった面々で1回だけのワークショップを開催するようなときのファシリテーションなどがそうです。
しかし,私自身には「ざっくりファシリテーション」の要素を受け入れる必要もあるかなと思いました。たぶん,わたしは真面目すぎて,四角四面な人間で堅苦しいので,みなさん,わたしと付き合うのに疲れると思うのですよね。
もうちょっと,私自身の幅を広く持ちたいですね。
そういう意味でも,学生から学びました。
ありがたいです。
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