「目標と学習と評価の一体化」がなくても気にならない学習者2パターン
ある模擬授業に学習者の一人として参加した。
その模擬授業はとても心地よく時間が過ぎた。
たぶん,コンテンツ(内容)はともかく,わたしが考える授業構成(プロセス)と似ていたからと思う。
ご本人は知らないし,意識していないとは思うが,わたしの言葉で言えば,「目標と学習と評価の一体化」された授業だったということだ。
自分が提唱している授業デザインでの授業を体験し,それが心地よく感じたということは少なくともわたしの言動,現行は一致しているということになる。うれしい。
さて,別の模擬授業はこの「目標と学習と評価の一体化」を(あまり)意識されていないものだった(とわたしは受け取った)。別に,この模擬授業は「目標と学習と評価の一体化のもと,授業デザインしてください,授業を進めてください」とわたしは伝えていないので,それをしようとしまいと問題ない。
しかし,ちょうど「対比」的に見られるものだったので,自分の頭の中でおもしろいなぁと思って見ていた。
わたしは「目標と学習と評価の一体化」された授業を心地よいと感じ,それが意識されていない授業はどうも「目標と学習と評価の一体化」から欠けている部分がどうも気になって,参加者としての自分は学習内容が入ってこない時がある。
しかし,周囲をチラ見すると,「目標と学習と評価の一体化」がされていなくてもなんとも思っていない学習者がチラホラいることがわかる。
全くの仮説だが,わたしは大きく2パータンあると見た。
「目標と学習と評価の一体化」がなくても気にならない学習者2パターン
それは以下の方々
天才型
奴隷型
である。
この2者の共通点は,そもそも「授業者の真意」に関して興味関心がない,授業の行く末など考えてない,というところである。
天才型
この方は,そもそも「ルール無視」を平気でする。
目の前の大雑把な状況や大雑把な説明を聞いて,自分の頭の中にある大きなひらめきがあり,それを実現すべくわくわくしながら進めてしまうという方である。
「環境」さえあれば,自分の主体性にまかせてどんどん進めてしまうので「目標と学習と評価の一体化」の構成を意識する必要ないし,そのあたりをしっかり聴く(確認する)必要がない。
授業者にとっては,授業者の想定したこと以上のことをしてくれて授業が面白くなる場合もあれば,授業を壊されてしまう時もある。
でも,総じて愛すべきキャラ(愛されるキャラ)であることは間違いない。
(あっ,でもコントロール欲求の強い教師が目の前にいれば,潰されてしまう危険性もあるかな)